旧常磐炭砿KK砿員の縦断調査研究 1958〜
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炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再結成「いわき(常磐)リージョン・コミュニティ」の発展を期待する

離職者たちの追跡-2
「いわき(常磐)リージョン・コミュニティ」の発展を期待する
正岡寛司

本年9月下旬、映画「フラガール」(李相日監督、2006年)が全国で封切られ、多くの人たちの注目を集めている。わたしも、常磐興産株式会社から招待状を頂戴し、久しぶりに映画館に足を運び、同映画を鑑賞した。

いわゆる「フラガール」たちが、ハワイアンセンターのオープンを目前にして猛特訓を受けていた様子を、早稲田大学社会学研究室の面々(わたしもその一員であった)は、調査研究のためたまたまその場に遭遇し、炭砿とフラダンスのあいだのイメージギャップの落差に目を見張ったことがあった。

当時のわたしの正直な気持ちを打ち明ければ、わたしは、ハワイアンセンターの成功と長期にわたる持続可能性に懸念をもっていた。しかしハワイアンセンターは、スパリゾートハワイアンズ(平成2年)と名称を変えたが、今日まで地方のアミューズメント・センターとしての役割を堅実に果たしている。今後とも、ディズニーランドやユニバーサルスタジオのように、さまざまな意味でグローバル化することなく、あくまで「ローカル」な特質を徹底的に追求しながら、地方におけるリゾートの中枢であってほしいものだ。そのためには、炭砿産業からエンターテインメント産業への転換という転進の「物語」を大切にしてもちつづける必要があろう。その意味でいえば、このたびの映画「フラガール」は、スパリゾートハワイアンズの特質を、もう一度世間にアピールする役割の一端を担いうるはずである。スパリゾートハワイアンズから元炭砿のイメージを取り去ってしまったとき、それは固有の場所(常磐)をもたないエンターテインメント施設のひとつでしかなくなる。常磐興産の組織が経営者を含め炭砿時代を知らない人たちによってほとんど占められるようになった今こそ、自らの出自を再認識する必要があるのではないか。常磐興産が本社を地元いわきに移転したこと(平成15年)は、その意味で高く評価できる。

昭和30年代半ばから昭和40年代にかけて、われわれは、毎年、常磐地域を訪れ、「常磐炭砿調査」を継続した。さらにわれわれは、いわき市の誕生を目前にしていた時期に、常磐5市9ヵ町村を対象にした「常磐リージョン・コミュニティ(地域圏)調査」(1963年開始)に着手した。それはちょうどフラガールズが猛特訓を重ねていた時期であった。われわれの調査研究の目標は、やがて常磐炭礦を含めて、常磐炭田の炭砿が全面的に閉山した後における常磐地域、および新たに誕生するいわき市の社会経済的発展とその都市計画のあり方を探ることを目指していた。つまり、いわき市の将来的発展に少しでも役立てばという強い気持ちをもって取り組んだ調査であった。

われわれが「常磐リージョナル・コミュニティ(地域圏)調査」を実施するにあたって、研究グループ内で事前に協議していた中心的な主題のひとつは、新いわき市の「都市イメージ」と都市計画のあり方についてであった。その結論を端的に表現すれば、新いわき市は、日本に数多くみられる城下町・門前町、あるいは伝統的な商業町や地方行政都市とは、異質な新しい都市作りをしなければ成功しないであろうという基本的な考えであった。そのように考えた理由は数多くある。なかでも市域が日本一広大(当時)であること、5市9ヵ町村が大同合併をすることになるが、中核になりうる圧倒的な勢力を誇る中心的な市街地が存在しない。言いかえれば、合併する5市が地政的に拮抗する関係(中心都市と衛星都市の関係にない)にあり、しかもそれぞれが個性を異にし、また同時に、それぞれ特有の問題を抱えているという当時の厳しい現実があった。

われわれの調査研究のタイトルが端的に表しているように、われわれは「常磐地区」をひとつの「常磐リージョナル・コミュニティ」(地域圏)と概念化することに意見集約をしたのである。リージョナル・コミュニティの概念については専門的には難しい議論があるが、率直にいえば、リージョナル・コミュニティとは、ひとつの「ネットワーク」に連結された複数の異質な下位地域単位の機能的・有機的な地域組織体を表していると理解すればわかりやすい。「リージョナル・コミュニティ」という考え方は当時としては、新鮮な地域社会イメージであったと今でも自負している。ところが、このような考え方を具体化するための最重要な課題は、ひとつのネットワークを形成する下位単位がどのように質的な特化・専門化を遂げたうえで、有機的に互いに補完しあえるかにかかっている。

当時、われわれは新いわき市のリージョナル・コミュニティとしての具体的なイメージを十分具体的につかめてはいなかった。常磐炭砿閉山後、新産業都市「常磐・郡山地区」の発展は、つねにわたしの気がかりであった。1966(昭和41)年、いわき市は「中核市」の指定を受け、地方自治体として行政上の自主性を得ることによって、いわき市独自の将来的発展を目指したと思われる。

1997(平成9)年に、元常磐炭砿労働者の追跡調査を再開して以来、いわき市を毎年数度ずつ訪れ、対象者の消息を尋ねて、市域のすみずみまで歩き回る体験を10年間も継続することになった。それこそ旧5市9ヵ町村を隈無くたずね歩いた。こうした体験を通して得たわたしの思いは、旧5市中心部が往時と比べようもないほど衰退したのではないかという切実な感慨である。市域中心部の衰退傾向は、われわれが「常磐リージョナル・コミュニティ(地域圏)」を開始した時点で、十分に予測されたことであった。自動車社会の到来と市民のライフスタイルの急速な変化が予測されたからである。事実、現在では、わが国のほとんどの地方中核都市は、市街地中心部の衰退と生活拠点の郊外化という大きな難問を抱えて苦慮している。いわき市も例外ではない。

その上、インターネット・コミュニケーションの普及が地域社会の日常生活のスタイルに大きな衝撃を与えている。いわき市の場合には、上述したように、旧平市・内郷市・常磐市・勿来市・磐城市という歴史的特徴を異にし、基盤産業を異にする伝統的な下位地域単位を含んでいるという特殊事情が重なっている。いわき市といわき市民は、新市誕生以来、市地域の都市的発展の基本型をどのようにイメージしてきたのであろうか。

わたしは地方行財政や都市計画の専門家でもないし、またいまだいわき市誕生以来の市域発展の趨勢について真正面から取り組んだ経験をもたないので、何とも評価のしようもないのだが、しかしこの10年間、自分が現在の常磐地域を直接に見た感想だけを言わしてもらうならば、市当局者も、また関係する市内の各方面における指導者たちも、下位地域単位の機能的な特化と専門化のイメージを十分に描ききれなかったのではないか、あるいはそのために十分な知的ならびに財政的な投資がなされなかったといわざるをえない。もし今、「いわきリージョナル・コミュニティ」の都市イメージを、わたしなりに描くとすれば、以下のような思いが頭に浮かぶ。

  1. 旧平・好間地区 若者の街・学校の町、とくに専門学校(IT技術・アスリート・介護士など)およびIT関連の企業団地
  2. 旧内郷地区 東北地方の産婦人科医療と小児科医療と介護の先端医療技術センター(少子化社会への積極的な対応)――子どもを産み育てることの喜びと幸せを提供・享受できる町)(近い将来の道州制の導入を先取りし、率先して東北地方全体におけるいわき市の特色を打ち出す意図をもつ)。
  3. 旧常磐地区 豊富な温泉を利用した高齢者とペットの憩い町、終い(ターミナル)の里と終生の憩いの場(墓地公園)――世代間の交流と共生を構築する町。
  4. 旧磐城地区 海産物と海鮮グルメの町・食へのこだわりとマリンスポーツ、とくにスパ・リゾートとの連携(化学工業と地元の伝統産業のあいだの接点を模索する)
  5. 旧勿来地区 南東北・北関東の地方文化・歴史の町――とくに北茨城地方との密接な連携が必要である(そう遠くない時期に、現在の「県」はなくなり、「道州制」に移行するのは必至である)。
  6. 旧小川町・遠野・川前・田人・三和地区 年間を通じて比較的温暖で、しかも年間日照時間に恵まれた地の利を活かし、自然の産物と、自然と共生できる生活の形を構想する。農産物などを媒介とした大都市住民との出会いと継続的な繋がりを、インターネット・メディアやスパリゾートハワイアンズなどを活用して具体化する(果実・山菜・渓流釣り・川釣り・炭焼の里、キャンプ場、遊歩道・山歩きなど健康レクリエーションの里)。
  7. 旧四ツ倉・久の浜地区  青少年の共同学習や共同作業の施設(地球環境、宇宙・地球の歴史=恐竜など)新しい教育理念のもとに全国各地から青少年を受け入れる。

上記のように特化した地域的下位単位(人びとの人生における各発達段階のニーズと多様なライフスタイルの形成に応えることのできる都市と街作り)からなる、リージョナル・コミュニティを有機的に連結するには、各地域単位に対して大規模な行財政・民間投資が必要である。さらにもうひとつ重要なことは、モノとサービス、そしてヒトの移動・交通に便利な環状交通網の整備・拡充が不可欠である。

小型バスを用いるにせよ、あるいは市電のような公共交通機関を用いるにせよ、旧炭砿時代の鉄道引き込み線跡地などを積極的に再利用しながら、早急に整備する必要がある。また、鹿島街道を挟んだ台地や泉や小名浜などの住宅団地をさらにいっそう充実させ、その上で、積極的に市民の住まいを住宅団地へと誘導していくことが必要ではないだろうか。

これによって、市民の日常生活圏を鹿島街道沿いの新興地区に集約していく方策も一考に値する。そうすれば、大規模なショッピングセンターが開発可能であるだけでなく、その場は市民の日常的な交流にも役立つはずである。市民が日々顔を合わせ、語り合うことが明日の活力源になるにちがいない。

わたしは、旧5市9ヵ町村の伝統文化と新しい活力を積極的に活用するためには行政主導型ではなく、市民参加型あるいは地元参加型の計画・実行集団を起ち上げ、「新生いわきリージョナル・コミュニティ」創成を具体的に構想し、積極的に具体化していくことが何にもまして重要であると考える。これまで述べたことは、いわき市のあり方についてのひとつのイメージでしかない。いつの日か、「いわきリージョナル・コミュニティ」が成就し、東北地域代表する「いわきリージョナル・コミュニティ」が人びとの人生における揺りかごから墓場までの各局面で、高品質のサービスを提供・享受できる人情豊かな総合的な健康都市として大きく飛躍することを切望してやまない。

(正岡寛司)

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