旧常磐炭砿KK砿員の縦断調査研究 1958〜
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炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再結成「常磐炭砿で働いた人びと」第10次調査を終了して

「常磐炭砿で働いた人びと」第10次調査を終了して
1章「常磐炭砿で働いた人びと」第10次調査を終了して

正岡寛司

1-1 常磐炭砿の「大閉山」とわが国採炭業の終焉

1971(昭和46)年3月31日、常磐炭砿株式会社磐城砿業所は、当面の窮状を打開し、先行き安定した企業経営の存立基盤を担保できないことを確認し、やむなく閉山を決断した。これによって、4,700名余におよぶ労働者の全員が「会社都合」によって解雇された。
とはいえ、本報告書のシリーズ『PART機戮任わしく述べたように、常磐炭礦株式会社磐城砿業所の、いわゆる「大閉山」が常磐炭礦株式会社の内部事情の悪化のせいで、自発的に採炭事業から撤退したかのように見えたとしも、その実そうではなかった。この閉山は、同時に行われた常磐炭礦茨城砿業所の閉山を含めて、国策に沿った計画的な事業撤退と廃業過程の実施であった。昭和30年代はじめから国家がやっきになって推進してきた「石炭産業の合理化」(石炭から石油への基礎燃料の転換)政策――徹底的な合理化を推進できない炭砿、言いかえれば、自由経済市場のベースに乗る可能性の見込めない効率の悪い炭砿を順次廃業に追い込むための周到な政策――を遂行していく過程の一環として実践されたのであった。だから、この「閉山」に向けた取り決めは、関係する中央官庁・石炭合理化事業団と企業(常磐炭礦)間の緊密な折衝と協議の積み重ね、そして前者側の指導下で計画的に、また行政機関主導の形でなされたのである。だからそれが「国策」閉山であったことは、今になってみれば、誰の目にも明らかである。
閉山にあたって、企業ならびに労働組合にとっての最大の関心事は、閉山交付金や離職金を含め、どれほど有利な条件のもとで閉山事業を完遂できるかという一点に集中した。たとえば、「全員解雇」後に、新たに「西部炭礦株式会社」(1,000名規模)を設立し、小規模ながら石炭の採掘を継続する方策も、温泉水の安定供給を確保し、もって大閉山後における労働者の地元での再就職のチャンスを広げると共に、地元経済の被る損失を多少でも軽減しようとする方策も、国、福島県、いわき市など行政機関と企業側と労働組合側の相互了解のもとでほぼ筋書き通りに進められたのであった。
しかし、その西部炭礦株式会社の経営も、5年後には行き詰まり、閉山に追い込まれた(表1をみよ)。またその一方で、磐城砿業所の閉山と時を同じくして、中郷砿と神ノ山砿を閉山した茨城砿業所は、1970(昭和45)年に操業を開始したばかりの「茨城炭砿中郷露天掘坑」(中郷炭砿)をさらに拡大して操業することに決し、年産5万〜7万トンの採炭を見込んだ。採掘した石炭のすべてが常磐共同火力勿来発電所に供給される予定であった。1984(昭和59)年度には、年産約8万トンの実績を上げ、経営は黒字を計上した。
しかし、次期採掘予定地の借地交渉が暗礁に乗り上げ、さらに主力採炭現場での揚排水設備に支障が生じ、その結果、採炭現場が水没する事故に見舞われ、ついに閉山に追い込まれた。1985(昭和60)年3月のことであった(表1をみよ)。常磐炭礦中郷露天砿の閉山によって、150年の歴史を誇った常磐炭田における大規模な採炭事業は、最終的に幕を閉じたのである。
わが国の石炭採掘業に目を向けると、2002(平成14)年1月、超近代的な装備を誇った北海道の太平洋炭鉱(株)が閉山した。これによって、明治期以降、わが国の工業化を支えつづけた採炭業は、歴史的使命を終えた。しかし『PART 次戮痢峇行にあたって」の項で記したように、採炭業がわが国の産業史の表舞台から消え去ったことは、石炭の国内需要が急速になくなったことを意味しない。現在なお、輸入石炭の消費はわが国の基礎エネルギーの約2割を占めているのである。わが国の採炭業からの撤退は、基本的に、マクロ経済的、ならびに政財界の諸条件が複雑に絡み合った帰結であったことは否めない事実である。

以下に、第五次石炭政策以降(1972年)の主要な閉山炭砿の一覧を参考のため転載しておく(第四次石炭施策による閉山については、本報告書『PART機戮澆茵法

表1-1 第五次石炭政策以降の主要な閉山炭鉱             (単位: 万トン)


閉山年月

会社名

炭鉱名

所在地

年間生産量

昭和48.11

三菱夕張炭鉱(株)

大夕張

北海道夕張市

79

昭和49.2

北海道炭礦汽船(株)

夕張第一

同上

16

昭和49.3

三菱石炭砿業(株)

端島

長崎県高島町

31

昭和50.3

旭炭鉱(株)

朝日

北海道岩見沢市

昭和50.8

北海道炭礦汽船(株)

平和

北海道夕張市

55

昭和5010

久恒鉱業(株)

久恒志岐

熊本県天草郡

昭和51.6

万字炭砿(株)

万字

北海道栗山町

昭和52.2

貝島炭礦(株)

貝島・第三西部

福岡県宮田町

26

昭和52.5

常磐炭礦(株)

西部

福島県いわき市

15

昭和53.5

大明炭鉱(株)

猪木

山口県美弥市

昭和53.6

北海道炭礦汽船(株)

夕張新第二

北海道夕張市

62

昭和55.7

北炭夕張炭鉱(株)

清水沢

同上

38

昭和56.3

上田鉱業(株)

第三上山田

福岡県山田市

昭和27.10

北炭夕張炭鉱(株)

夕張新

北海道夕張市

92

昭和60.3

常磐炭礦(株)

中郷

茨城県北茨城市

昭和61.11

三菱石炭砿業(株)

高島

長崎県高崎

63

昭和62.7

三井石炭砿業(株)

三井砂川

長崎県高島町

76

昭和62.10

北炭真谷地炭鉱

真谷地

北海道夕張市

57

平成1.9

北炭幌内炭鉱(株)

幌内

北海道三笠市

111

平成1.10

伊東鉱業(株)

伊東

北海道空知郡

平成2.3

南大夕張炭鉱(株)

南大夕張

北海道夕張市

63

平成4.9

三井石炭鉱業(株)

芦別

北海道芦別市

26

平成6.2

赤平炭鉱(株)

赤平

北海道赤平市

46

平成7.3

空知炭礦(株)

空知

北海道歌志内市

41

平成9.3

三井石炭鉱業(株)

三池

福岡県大牟田市

227

平成13.3

松島炭礦(株)

池島

長崎県外海町

96

平成14.1

太平洋炭鉱(株)

釧路

北海道釧路市

180

※ 閉山年月は昭和56年までは「鉱業権消滅の日」、昭和57年以降は「全員解雇日」
資料出典 http://10.tok2.com/home2/kurodaiya/date/heizan.htm

1-2 「常磐炭砿で働いた人びと」第10次調査の経過と概況

われわれの研究グループ(早稲田大学と大正大学)が、「大閉山」によって離職した労働者全員の、その後における職業生活と人生形成に関する資料を収集するため「常磐炭砿で働いた人びと」関する研究計画を調査として実施に移したのは、「大閉山」から26年の時が経過した1997(平成9)年のことであった(「大閉山」から今次研究の再開にいたるまでの経緯の詳細については、本報告シリーズ『PART I』の1章を参照してほしい)。と同時に、われわれの研究グループは、旧常磐炭砿株式会社と常磐炭砿職員組合ならびに常磐炭砿労働組合が、閉山後にそれぞれの保有する膨大な資料を地元の福島大学に搬入し、その資料の保存と管理を委託した。われわれの研究グルーブは福島大学に委託された資料の閲覧・収集、そして収集した資料の利用可能な形にデータ化する作業を積極的なすすめた。
当面、これらの資料は、2つの目標を実現するために活用された。1つは、その資料の一部を活用して、大閉山で離職したであろうと推定される調査対象候補者の台帳を作成するための基本資料にすることであった。そもそも、なぜこの作業に着手しなければならなかった理由は、『PART I』1章と『PART 掘戮裡馨呂任わしく述べた。つまり「大閉山」によって離職者を余儀なくされた労働者の総数、および彼らを個別に指示する完全な離職者台帳が作成されなかったのか、それとも作成されたけれどもなんらかの理由で保存されなかったのかは、今となっては確実には知り得ないが、早稲田大学社会学教室が「大閉山」時に砿業所から寄贈された資料中にも、また福島大学に依託された資料中にも離職者全員を記した台帳は見あたらなかった。
それゆえ、われわれが福島大学資料と早稲田大学で保存している資料、および閉山後に元常磐炭砿労働組合有志によって作成された記念誌『地底との訣別』を組み合わせて、「大閉山」離職者とみなされる人たちのデータベースをコンピュータ上に作りあげた。その人数は「4,847名」に及んだ。この人数は当時会社側が発表していた離職者数のどれとも一致しないが、しかしそのいずれともかなり近似した人数をしめしている。いずれせよ、われわれ研究グループが実施した「常磐炭砿で働いた人びと」調査の個別対象は、このような作業を経て作成された、ある意味で仮想の人たちの集合を対象として出発せざるを得なかったのである。
福島大学で収集した資料の2つ目の活用は、収集した資料をデータ化し、そして分析に組み込むことであった。すなわち、対象者本人から面接調査によって入手したデータだけでなく(『PART 次戮泙任諒鷙陲麓腓箸靴凸明楪敢坤如璽燭飽裕鬚靴討た)、「大閉山」以前および「大閉山」直後に会社や就職対策本部によって作成された資料が本報告書に収録したいくつかの章の論文中で十分に活かされている。この点についていえば、現時点における面接調査による対象者個人の自らの人生についての回想と記憶による遡及データと現在の主観的な意識と評価などと、過去に文書として残された記録からデータを作り、そしてそれらを組み合わせて、いっそう深みのある分析をすることができたのではないかと考えている。こうした面接調査と分析を実践することのできた学生たちは得難い人生経験と学習をしたはずである。
本研究を開始してから、さらに10年の歳月が流れた2005(平成17)年8月、われわれの研究グループは、10年間継続したいわき市内居住の「大閉山」離職者に対する学生たちによる現地面接調査(第10次「常磐炭砿で働いた人びと」)を終了し、本報告書を刊行することができた。
これまでに刊行された各報告書は、基本的に現地調査に参加した学生自身が作成した成果である。学生たちは、いわき市内に4泊ないし5泊して、対象者に面接調査を実施し、学校に帰ってから情報処理室に閉じこもって、収集資料からデータを構築し、解析し、そしてその結果から得られた知見を原稿にまとめるという、まるまる1年間の実査と作業過程を経て、各報告書を作成した。この10年間に「常磐炭砿で働いた人びと」調査に参加した学生の総数は2つの大学を合わせて300名を越えるが、こうした学生たちの勉学・実習を兼ねた努力の成果がすでに計8冊の報告書『炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再形成』として積み重ねられ、そしてこのたび最後になる9冊目の本報告書(PART IX)は、いわき市在住の対象者のみならず、後で述べるような形で収集された他地域に在住している対象者の資料を含めて、これまで以上にダイナミックな分析を試みている。
われわれはひとりでも多くの方々に、われわれの報告書を読んでもたらいたいと考えてきた。そこで、刷り上がった報告書は、面接調査に快く応じてくださった対象者の方々をはじめ、関係の機関や図書館、あるいは研究者の人たちに広く配布してきた(もちろん、無償配布)。幸いなことに、報告書に目を通していただいた方のうち、旧常磐炭砿で働いた経験をもつ人たちのみならず、多数の地元の人たちがわれわれの研究に関心を寄せていただいた。そうした方々の一部からは、まだ現住所の判明しない対象者の消息あるいはその人たちの探索について多大なご協力をいただいたし、さらに、報告書中の記述中の誤りを指摘し、またわれわれの解釈とは異なるご意見をいただいたこともあった。この10年間に、われわれ研究グループは、地元に数多くの協力者と友人を得ることができた。「常磐炭砿で働いた人びと」調査の終了にあたって、地元の協力者と友人たちに対して、心から感謝の気持ちを伝えたいと思う。もしそうした人たちの協力と支援がなかったら、われわれの研究計画はまちがいなく中途で頓挫していたにちがいない。
ところで、われわれが本研究において対象者(「大閉山」離職者)としている全員が、現在、いわき市内に居住しているわけではない。「大閉山」後すぐに常磐地域を離れ、他地域、主として関東地方に移動していった多数の旧常磐炭砿労働者がいたことはよく知られた事実である。「閉山」離職者のどのような人たちが地元に残ったか、またどのよう人たちが積極的に他地域に移動したか、もしくは最終的に地元を離れざるを得なかったのか。そして地元を離れて他地域に移動していった人たちは、現在まで他出した地域に定住しているのか、それとも中途でいわき市内に引き揚げてきたのか、こうしたことの分析を行うためには、いわき市以外の地域で現在生活している対象者から、いわき在住の対象者から面接調査を通して得たと同程度の情報を確保しなければならない。
それゆえ、われわれの研究は、いわき市内居住者の現在の所在についての情報を収集するにとどまらず、北海道から関西方面までの広い地域に広がって分布していると思われる、多数の対象者から詳細な情報を入手する必要があった。しかしこの情報収集は難航を極めた。この面でも、地元の協力者や友人から多数の有効な情報を提供していただいたのであるが、しかしそれだけでは到底、「大閉山」後に他地域に移動した約1500名を数える人たちの現況に関する情報が得られるわけではない。
われわれの研究グループがそうした対象者を探索するために活用した主要な資料と手段について簡単に触れておかねばならないだろう。「大閉山」後、他地域に移動した人たちの中には、今では懐かしい言葉のひとつだが、かつて地方から大都市で就職することの決定した中学生のあいだで広くにみられた「集団就職」と表現するのがふさわしいような移動の1つのパターンが観察された。同じ企業に同時に多数採用され、就職対策本部の人たちに付き添われて就職していった人たち、また勤務企業は違うが、石炭合理化事業団が建設した同じ宿舎や団地で生活をはじめた人たちも少なからずいた。われわれの研究グループは、「大閉山」後の個人別就職先名簿などから得たデータを頼りにしながら、個人の電話番号、氏名、住所を検索できるコンピュータソフトを活用して、対象者の氏名、対象者の最初の住所、常磐炭砿離職者が居住していると考えられる石炭離職者用の住宅団地の所在地などを、対象者ごとに検索しながら対象者の所在の見当と確認に努めた。この作業は約9年間にわたって休まず継続された膨大な努力であった。これによって、かなり多数の対象者と覚しき氏名と住所についての情報を入手した。しかしその人が本当にわれわれの対象者であるかどうかは、これだけの作業では確定できない。この探索過程で遭遇したもうひとつの問題は、ここでもやはり「大閉山」後、30年近くの時が経過した事実であった。企業の定年年齢が60歳に延長されていたとしても、われわれの対象者のほとんどが60歳を過ぎ、定年を迎えていたのである。現役時代に企業の宿舎で生活していた人たち(たとえば、千葉県の浜田重工株式会社など)もすでに社宅を退去しているという事態に直面したわけである。彼らがどこに新しい住居を定めたか、こうした人たちの現況は、他出先での元常磐炭砿労働者の親睦組織(たとえば、東京、千葉、茨城・鹿嶋、神奈川県愛甲町、あるいは旧青葉炭住区の親睦組織など)のメンバーや、時には会員名簿を閲覧させてもらい、対象者の探索に役立てた。また、先にも述べたように、いわき在住の対象者からも他出者の現況情報を得るなど、さまざまな努力を重ねた。他出した対象者と覚しき方々をかなり特定できた2000年に、選抜した対象候補者932名に対して、手紙によって対象者であるか否かを確認し、もし対象者である場合には、同封した簡略な構造調査票に記入し、返送してもらう方法で調査を開始した。これにより226名から回答を得た。こうした形で、いわき市外居住の対象者の追跡調査も始まった。
さらに、他地域に居住する対象者を確認するための作業を継続し、早稲田大学文学学術院の厚意によって、われわれの研究グループに提供された「常磐アーカイブ研究室」内に情報処理・保存用の各種電子器機を装備し、契約専属研究協力員を配置することが実現した段階で、いわき市を含め、全国各地の対象者候補とみなされる人たちに対して、積極的に電話をかけ、対象者であるかどうかを確認する作業を現在まで継続してきた。この間、同姓同名ではあるが常磐炭砿とはまったく関係のない方々にも手紙や電話、あるいは直接に訪問するなどして、大変な迷惑をかけることになったことを、この場を借りてお詫びをしておきたい。こうした無駄と関係のない多数の方々に迷惑をかけた末に、ようやくいわき市以外居住者に対しても面接調査を実施できる状態が整備し、2004年(関東地方と福島県中通り地区)の構造化調査票を用いた面接調査を社団法人中央調査社に依頼して実施した。つづいて翌2006年にも同様の調査(いわき市内遠隔地と全国)を実施して、10年かがりの「常磐炭砿で働いた人びと」の調査研究を完了した(ただし、本報告書では、2006年度に実施した調査データは含まれていない。この部分を含めた最終的な成果については、別の機会に研究員が書物などを刊行し、公表する予定である)。
なお、本報告書ではじめて、女性の「大閉山」離職者のデータが報告された。ただし、残念なことに、女性対象者の回答者はこの段階で27名と少なく、したがって子細な統計的処理することができないので、男性とは別に1つの章を起こし、女性の対象者の基本属性について簡単に紹介するに留めた。
以下に、「常磐炭砿で働いた人びと」調査の実施記録と成果をとりまとめておく(表1-2)。さらに、本報告書で分析対象としたデータの出所をしめしておこう(表1-3)。


表1-2 「常磐炭砿で働いた人びと」調査一覧

 

調査概要

実施年月

抽出数

有効
回答数

回収率

予備調査

方法:個人面接法
対象:いわき市居住者高齢者
(1920年以前出生)

方法:個人面接法
対象:福島県内居住者

方法:個人面接法
対象:神奈川県愛甲郡居住者

1997年9月

 

2000年9月

 

2000年5月

57

 

 

-

35

 

6

 

4

61.4%

 

-

 

-

市内面接調査

方法:個人面接法
対象:いわき市居住者

 

第1次 1997年9月
第2次 1998年7月
第3次 1999年7月
第4次 2000年7月
第5次 2001年7月
第6次 2002年7月
第7次 2003年7月
第8次 2004年3月
第9次 2004年7月
第10次 2005年7月

170
196
338
554
433
336
47
135
590
545

89
113
171
167
232
129
17
34
90
56

52.4%
57.7%
50.6%
30.1%
53.6%
38.4%
36.2%
25.2%
15.3%
10.3%

域外郵送調査

方法:郵送調査法
対象:いわき市外居住者

2001年1月

932

240

25.8%

域外面接調査

方法:個人面接法
対象:いわき市外居住者
(郵送調査回答者を含む)

 

  1. 2004年4-6月

 

 

397

 

 

226

 

 

56.9%

 

 

生活史調査

対象:いわき市居住面接調査回答者

 

  1. 2004年7月

 

 

 

 

56

 

 

注:郵送調査の抽出数は依頼状の発送数であり非該当者を多数含む。
面接調査では事前の依頼状の発送数から明らかな非該当者を除いたもの。

 表1-3 各報告書の観察対象数


PART

発行年

1998.4

1999.9

2000.9

2001.7

2002.5

2003.12

2004.12

2005.12

本報告書

観察対象数

89

201

373

539

688

901

254

1,355

1,410
(うち女性27)

調査名

市内
1次

市内
1・2次

市内
1〜3次

市内
1〜4次

市内
1〜5次

市内
1〜6次

市外
郵送

市内1〜9次
市外郵送*
市外面接1次

市内1〜10次
市外郵送*
市外面接1次

注1:PART擦任蓮2003年実施の第1次人生史調査(2002年までの面接調査回答者中56名)結果も報告した。
2:*は、市外郵送調査回答者のうち、市外面接調査非回答者81名。

本報告書で観察対象となる人数の総計は、1,410名でありその内27名が女性である。2005年度の第10次「常磐炭砿で働いた人びと」調査における有効回答者数は、予想通り、56名と少なく、したがってその数を加えて各種集計を試みたとしても、その分布は『PART 次戮侶覯未よび知見とほとんど変わるところはないと考えられる。そこで、本報告書では、先に言及したように、従来とは少し違う形で分析し、報告することにした。
この報告書に先立ち、昨年12月4日、常磐炭田史研究会が「常磐炭田開発150周年記念講演会」を企画開催され、まことに名誉なことに、わたしを報告者としてお招きいただいた。そこでわたしは、「常磐炭砿で働いた人びと」の成果の一端をお話しさせていただく機会を得た。多数の聴取者の方々にわれわれの研究成果のごく一部でもお伝えできこと、そしてその機会を提供してくださった常磐炭田史研究会の役員の方々、とくに里見庫男会長に、この場を借りて深謝するしだいである。

 

 

 

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